明日もある !凸凹家族

カサンドラ症候群です。自閉症スペクトラム、ADHDの子ども育児について綴っていこうと思います。

母のこと(軽度要支援状態)

年末はガッツリと仕事をして、31日だけはお休み。
大晦日は、子どもが生まれてから初めて片付けができた大晦日でした。
正月の1,2日はこれまた仕事で頑張って。
3日から8日までは実家に帰省してきました。
沖縄は気温25度!!暖かくて。涙
年末から子どもと二人でずーっと咳、鼻水、痰絡みの風邪引きです。
帰省中に治るかと思っていましたが、治りませんでした。
沖縄は車社会です。
空港から、実家や姉の家、病院と毎日毎日、目まぐるしく移動が多かったので。
子どもも私も疲れています。
今回は実の父の介護問題の様子を見ることがメインだったため。
食事もコンビニが多く、自宅でも大したものは食べていません。
実母が健康な時はクワッチー(ごちそう)を用意して待ってくれていましたが。
軽度脳梗塞後のために、気力・体力がない。その上に、軽い認知症状?も出てきているので、もう出かけます。という時に、「ソーキ汁(豚のあばら肉)を作ってあげたいから買ってきて。」など言い出すので困りました。気持ちはありがたいけど、完全に時間の見積もりが間違っている・・・。


実家に寝泊まりして、実父よりも実母のほうが認知症状あるのでは?と感じました。
この母親も、急性期病院からリハビリ期病院に転院したのですが。生活動作はすべて自立と判定されたため、介護保険は非該当となるだとうと言われたそうです。そのため、姉は介護保険申請をしていなかった・・・。がーん。
姉達は仕事をやりくりしたり、疲れをおして母親の世話(買い出し、ゴミ捨て、実家の片付け)をがんばってやっています。ずっとは無理無理。


地域包括支援センターの相談員さんに、私が直接相談に行きました。
再度、来沖してから介護保険の再申請をする予定になりました。
ヘルパーさんをお願いして、週に1・2回でよいので人目を入れて生活させてあげたいのです。


①ゴミだしがイマイチできない。ゴミ出しの日を忘れる、覚えていてもまとめられたゴミを出すと認識できておらず出せないことがある。
燃えるごみ、燃えないゴミはなんとか出せていても、缶や瓶、ペットボトルは出せていない。姉が回収して、自分の自宅から出している現状。


でも、ゴミ出しは、元来父親の役割でした。
お金の管理も、ゴミの管理も母親は元々出来ないのです。
ぼけてきたからではなく、もともと出来ない人なのです。


②腐ったものが認識できない。
腐ったものを捨てられない。というか、捨てようと判断できない?
冷蔵庫や台所に、くさったオカズや下ごしらえした食材が放置されている。
要冷蔵のものが台所に置かれたまま(シラスとか)、たぶん食べてる・・・。
簡単な調理をして食べることは出来るし、洗い物もできるが、いまいちツメあまい。


調理したまな板を、汚れたまま放置・・・。
忘れるのか?面倒になるのか?
南国の怖いのは、ハエやアリがすぐに群がるところです・・・。
最近では見たこともない大きなハエが自宅内を、ブンブン飛んだのでびっくりしました。
夏場だと、巨大なトービーラー(ごきぶり)がすぐに集まるはず。
とにかく不衛生です。


③物忘れある。
寝る前に、なにをしようとしていたのかを忘れてウロウロしている。
歯ブラシをしようと歯ブラシをもったはずなのに、ナイナイと探し回る。
メガネがナイナイと、ウロウロ探し回る。
マウスピースがナイナイとウロウロ探し回る。
夜間が多く、認知症状というよりはADHD症状なのかな?という気もしました。


この母、考えると典型的なADHD母です。
そう思うと、今までの謎がひもとけるし、許せます。
子ども達への愛情がなかったわけではない。
ただ、好奇心旺盛で、外へ外への発散型で、外での活動で他者評価されることで自己を保っていたタイプなのです。子どもたちは、いつもないがしろにされてきました。
自分の趣味(しかも多趣味)や、社会活動(自治会、婦人会、民生委員的な活動など)が大切だったのです。口では子どもを褒めますが・・・褒め上手。あまり関心はない。自分の成長が楽しみであり、大好きな人です。外の世界での友人・知人からの評価や賞賛が大好物なのです。


私は母に電話するのが嫌です。それは、母の自慢話を聞かされるから。
いいね!を。母を認める係りをしないといけないから。
母も寂しい時もあるようですが、主にリア充です。私、頑張ってますよという自慢話を聞かされて、うんうん。と相槌をするのが苦痛です。相槌を打たなくても、ひとりでずっと喋る。同じ話を何回でも繰り返す。これは年相応にぼけただけではなく、性格です。そう、ADHDの性格が、そうさせていたのだと今では思いやることができます。
娘としては、自分自信をおさえて、母に対応しなければいけない。苦しさがあります。


この母親。
本人は自覚がないのですが、非情なのです・・・。
勝手な人なのです・・・。勝手な人、わがままな人。幼い人。


私の養育も、10歳ほど歳の離れた姉にさせていました。
(なので、姉は私のことをうとましく思っていました。可愛がってもくれていましたが。姉と、私の双方に、嫌な記憶として残っています。お風呂、着替え、髪結いなど)


歯科通院や内科受診は、父親が連れていってくれました。
父が車を運転していたということもありますが、外の人とのやりとりが母では無理と父は思っていたのかもしれませんね。
母親と遊んだ記憶はほぼなくて。
父が同伴だった記憶はありますが。
主に遊んでくれたのは父でした。
海に連れていってくれたり、山歩き(これは母も)したり。
延々と歩け歩けをしたり。(父と目的地まで、半日歩き回る)


反動ででしょうか?それとも私の特性からでしょうか?
母親に裏切られた記憶ばかりが濃いのです。
約束していた折り紙動物園作りを忘れていたとか。
がっかり弁当もたされていたとか。


母の趣味の場に同伴させられてずーっと見て待たされたとか。(琉球舞踊とか)
同じ趣味をしようと持ちかけられましたが、全力で拒否しました。
琉球琴、三線、琉球舞踊などなど。
思えば、それらが嫌いだったわけではなくて。
母が私をないがしろにすること。
私から母を奪っていることがきらいだったのだと思います。
だから、素直になれない私は見ているだけ。
母はめきめきと上達しました。師範の免許状までとったらしいので、立派です。
自身のなかった気弱な女の子は、厚顔なご婦人へと変身しました。


母親自身は教養がなく、学歴コンプレックスがありました。
そのため、当時は珍しい大学出の父親とくっついた。(父親昭和ひとケタ世代です。たぶん父も自閉症スペクトラム持ちで、母がADHDなので。引き寄せあっていますね・・・。)
子ども達に、勉強しろ!とは言わないが、勉強出来ない子はいらない子という呪いをかけていました。そのせいで、勉強のできない姉は私の世話を押し付けられてしまったようです。ゆるい虐待ですね。
勉強ができた兄、姉。そして私は優遇されました。
良い成績をとることが、親を喜ばせる事でした。
でも、高校生の時に破綻します。
私がどんなに頑張っても、優秀な人は多くいて、成績は頭打ちになるのです。
母親から部活も趣味も取り上げられ、無理やり通塾させられて。
その上、進学する貯金もないのに、大学進学しなさいと言われて。
大変な鬱時代に突入してしまいました。


現実がうまくいかないことで、親子間の問題が破綻してしまった。
でもそのことで、自分の人生の軌道を自分で決めるしかなくなって。良かったのかもしれません。


今回、父・母ともにほぼ同時期に体調不良となりました。
母の方が先に在宅生活を再開させていますが。
この母、父親を引き取りたくない様子・・・。
父も父で、無自覚のアルコール中毒者でしたし、母も自分の体調不良もあるしで。気持ちが理解できないわけではない。でも、彼女のわがままをいさめることができるのも私だけなのです。他のきょうだいではできません。


社会的な逸脱行為もなく、ADHDに無自覚な母の晩年は幸せだと思います。
おそらくADHDだろう母親は、やはり私自身や孫の発達障がいが認められません。
受けいれられないというのかな。
だから、やはり母自身も発達障がいなのだと思います。
白。黒で判断して切り捨てる。中庸の感覚がもてない。
身内の発達障がいを、とりあえずそうかもしれない。とか、そうなのか。と受け入れられる人は、定型発達か発達障がいが軽いタイプかもしれません。全力で否定・拒否するならば、当人が発達障がいの可能性が濃厚だと私は思っています。


父にしろ、母にしろ。
今が私の力が必要な時です。


そして、うちの子・・・。
寝込んでいる祖父を見て。
私を一か月間だけじいじの世話をしてもよいと言ってくれました。
姉らの提案では、私自身の心の休養にもなるだろうと。確かに!!
珍しく頑張る気のある夫も、彼の実家も子どもの世話をしてくれることになり。
おそらく一か月は子どもと離れます。
想像もしていなかったことですが。
でも、なんだかいい展開かも!
私が頭を下げることで、あちこちの絆ができたりつながっていく感覚。
流れってあるんですね。


目下、怖いのは。
職場に休職願いをすること。迷惑かける!
こわい!こわすぎる!
でも、私がいなくてもなんとかなるものです。職場とはそういうものです。




実家で作ったお菓子^^
作るのは時間かかるけど、食べるのは一瞬です^^
クラシエフーズの知育お菓子。
小さい子のいるお家にお勧めです。数百円で、知育も出来て、あたたかな思い出もできます。

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